なあ、悠詩
北京オリンピックが終わった。
私の約一年半に及んだ治療・療養期間も今月で終わる。
もはやエピローグに入った感覚だ。
ほっとしたような、さみしいような複雑な気持ちだ。
やはりこの一年半はひとつの物語であった。
己を思い知らされた一年半だった。
しかし知ったからといってすべて好転したわけではない。
むしろ持ち越すものがほとんどだ。
形を変えながらもまた物語りは続いていく。繋がっていく。
そういうことなのだろう。
9月からの社会復帰はひとりぼっちだ。
なんと心もとないことだ。
これまで、少なくとも前職の六年間は人に支えられてきた。
自分の力ではなく、人の力を借りてやってこれた。
受け入れてもらえたし、甘えられたし、祭り上げてもらえた。
そう、明らかに恵まれていた。
もう誰もこれまでの仲間や味方はそばにいないのだ。
ひとりぼっちなのだ。
きっと自分の無力さと未熟さを思い知るだろう。
それを回避するにはあらかじめ自覚することだけだ。
ただ、もう一回、新しく始まるということでもある。
まだ白紙だった部分に新しい色を入れていくことになる。
これまで彩ってきた部分を上書きするわけじゃない。
つまり、エピローグは新しい物語のプロローグでもある。
そう、それは胎動。
常にどんな時も白紙の部分は持っていたい。
実はそれが生きるということなのではないか。
何かを追い求めたり、成し遂げたりすることではなく。
それに何があっても大丈夫。
私には大切にしたいものがもうはっきりわかったから。
それはどんな状況に身を置こうが不変である。
迷った時はそっと目を閉じればいい。
それだけが見えるから
from オトウサン
—悠詩(1歳11ヶ月) with 父(34歳) and 母—