「エピローグ、そして胎動」・:*:・゚☆ すくすく育つ君へ

なあ、悠詩

北京オリンピックが終わった。

私の約一年半に及んだ治療・療養期間も今月で終わる。
もはやエピローグに入った感覚だ。

ほっとしたような、さみしいような複雑な気持ちだ。
やはりこの一年半はひとつの物語であった。
己を思い知らされた一年半だった。

しかし知ったからといってすべて好転したわけではない。
むしろ持ち越すものがほとんどだ。

形を変えながらもまた物語りは続いていく。繋がっていく。
そういうことなのだろう。

9月からの社会復帰はひとりぼっちだ。
なんと心もとないことだ。

これまで、少なくとも前職の六年間は人に支えられてきた。
自分の力ではなく、人の力を借りてやってこれた。

受け入れてもらえたし、甘えられたし、祭り上げてもらえた。
そう、明らかに恵まれていた。

もう誰もこれまでの仲間や味方はそばにいないのだ。
ひとりぼっちなのだ。

きっと自分の無力さと未熟さを思い知るだろう。
それを回避するにはあらかじめ自覚することだけだ。

ただ、もう一回、新しく始まるということでもある。
まだ白紙だった部分に新しい色を入れていくことになる。
これまで彩ってきた部分を上書きするわけじゃない。

つまり、エピローグは新しい物語のプロローグでもある。
そう、それは胎動。

常にどんな時も白紙の部分は持っていたい。
実はそれが生きるということなのではないか。

何かを追い求めたり、成し遂げたりすることではなく。
それに何があっても大丈夫。

私には大切にしたいものがもうはっきりわかったから。
それはどんな状況に身を置こうが不変である。

迷った時はそっと目を閉じればいい。
それだけが見えるから

from オトウサン
—悠詩(1歳11ヶ月) with 父(34歳) and 母—

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