こんな物語がある。

『とあるアラビアの王子様がいた。
彼は壺の中に入っているキャンディが欲しい。
壺の中に手を入れてキャンディを握ると壺から手が抜けない。
側にいた賢者が「キャンディを離しなさい」と王子に告げる。
賢者はたしなめる。
王子はキャンディを取るのをあきらめて壺から手を抜いた。
側にいた賢者が壺をひっくり返してキャンディを取り出した。
王子はそれを受け取った。めでたしめでたし。』

あきらめることは常に悪ではない。
あきらめることによって目的を果たせる場合もある。
気づかなかったことに気づくこともあるだろう。
何もかも正攻法である必要はない。
正しいと思われる言動をとることがすべてではない。
物事にこだわらなかったりあきらめたりすることによって直接的にも間接的にも得るものがあるのもまた人生だ。

少し角度は変わるが、「あることを選ぶ」ということは「あることを失う」ということでもある。
そう、どっちにしろ完全ということはないのだ。
どんなこともそんなに思いつめる必要はないのだ。

ただし、あきらめるという言い方は嫌われるし、実際あきらめるとネガティブにとられる。
だけどそうではないんだ。
単に視点の違いである。
それを説明するのは大変だし伝えきれないことが多い。誤解もされる。
だけど期待にこたえようとあくせくしたり踏ん張ることはない。立派でなくてもいいんだよ。
もっと穏やかにじっくりと自分というものを歩んでいくためには視点を変えることは必要だ。
開放し、見方を変えることによって自分にフィットするものがあらためて得られるのだ。確認できるのだ。

何かを具体的に言っているわけではない。
昼下がりの暖かい陽気に包まれて空を見上げてふと思ったのだ。

もはやトウサマは立派になるつもりはない。
だけど、オマエサンにはトウサマの生き方をきちんと伝えるよ。
見習う必要はない。何かを感じてくれればそれでいい。

from オトウサン

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