なあ、オマエサン。
人に受け入れられたり認めてもらうことは容易でない。
価値観やスタンスがそれぞれ異なることが許されるこの社会ではとても厳しいことだ。
他者に依存する限りどうにもならないことが多いのだ。
なぜ自分と同じように考えないのか、感じないのかだって?そんなの当たり前だ。
自分と同じように考えてくれるなど甘いよ。
他者が不特定多数だとなおさらだろう。
そこで何を自分の柱とするかである。
目的や目標について他者への依存度が高ければ振り回されたり思うようにならないのは当たり前という自覚が必要だ。
そうでなければ単なるワガママだろう。
不平と不満ばかりで人の悪い部分しか目に付かなくなる。
寂しいものだ。
私は思うのだ。
自分の中で完結する価値観や目的をいかにつくれるかが大事なのだと。
それを追い求める過程こそが人生という物語だろう。
そして、結果としてその物語が多くの人に伝われば幸せだ。
こういう順番であるべきだ。
他者が先に来るか自分が先に来るかで同じことでも充足感は全然違ってくるだろう。
(だから他者に対しては依存でなく柔軟を原則としたいのだ)
ただこれは伝わりにくいものだし理解されにくいという自覚も必要だ。
変化していく部分もあるので誤解もされるだろう。
内面の世界などいつも一緒にいる人であっても見えにくいものだ。
きちんと説明できたとしてもそれに至る経緯を共有できてなければ理解されないことも多い。
そんな状況で他者に依存することなく踏ん張れるかどうかが柱の太さであり強さなのだろう。
こうして考えて整理することもまた人生であり物語だろうか。
from オトウサン