「終りがあり、始まりがある」~置手紙~

なあ、オマエサン。

四日前、母が旅立った。

昨年の年末に発覚して、9ヶ月だった。
終わってみればだけど、私にとっては出来すぎな9ヶ月だった。

IUCに入ったと聞いて、その日に移動した1月の後半。
大雪で羽田に引き返す条件付きのフライトだった。
そこから4月と8月は東京に戻る機会もあったが、ほぼ島根、そして病院の鳥取。
病院の近くにもだいぶ宿泊した。
これまでを取り戻すように、小さい頃からの話もたくさんした。

意向を汲み取って、ちゃんと治療にも臨んでくれた。ありがとう。
夏からは、緩和対応になる。
最後は、母が望んだ着地になったと思う。

結果的にきちんと話ができた前の晩、母の病室に泊まった。
朝、私がすごいいびきで、心配だから棒はないかと言われた(私を突いて起こしたい意図で)。
病院だから、棒はないよと答えた。
結果的かつ実質的に最後の晩になったので、もっと優しくすればよかったかな。
やはりその日の朝、「たーくん」なんて幼少期のあだ名で呼ばれた。あら、四十年ぶりかしら。
病室でかけっぱなしにしていた音楽から流れる、玉置浩二(安全地帯)の歌も口ずさんでいた。
「真夜中すぎの恋」だったかな。

朝のご機嫌から一転、その日の昼過ぎ、痛みや息苦しさを消す処置の選択をする。
眠ったまま、もう話はできなくなる前提で。
その母の意向を尊重して、処置の直前に実質的なお別れの言葉を交わす。父と一緒に。
その四日後の深夜、静かに永遠の眠りにつく。父と妹としっかり見送る。

今思えば、この9ヶ月、いろんなことが出来すぎだった。
私が悲しくならないように、狙った? もう知る由もないけど。

この間、好きにさせてくれた東京の妻子に心から感謝。

これから、私は私自身として抱えた課題にしっかり向き合おう。
そのために、公私ともにこのタイミングで解放してくれた母に感謝。

私は細く、長く生きたい。100歳以上。
母は75歳だった。今、私は50歳。
母と同じとすれば、あと25年なんて、とんでもない。短すぎる。
成し遂げたいことも、人生後半の生き方も定まった。
だから迷惑をかけない前提で、長生きをしたいし、できる限り、見送る側でありたい。

人生はとっくに後半戦。
積み上げたものを、棚卸して身軽になる。
そして自分の生き方を体現する。

ありがとう。

母が永遠の眠りについたあとに明けた空。とても穏やかだった。

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