「現状麻痺からの脱却とスイカ(羅皇)」〜置手紙〜

なあ、オマエサン。

今日は用事があって埼玉は森林公園方面へ。
途中、農協の直売所でどでけえスイカを買った。
オマエサンが選んだのは、その名も羅皇(らおう)。強そうだ。
特大サイズだが、2500円。
むむ、これは重たい。

帰宅後、中が黄色のスイカと判明。
冷やさないとなので、明日以降か。

それにしても、現状麻痺しているような気がする、今日この頃。
あれこれと、目の前の物事や関係性に執着していると、落ち着かなくなる。
それらは、元々、持っていたものでもなければ、偶然、手にしただけのこと。
無くなっても、それだけのことなのに、引きずるし、それを先回りして不安にもなる。

また、過去の散々たる状況と比較する際も、気をつけなければならない。
過去よりマシだと考えること自体については、それはそれでいい。

だが、比較して今はまだマシだという「状況」で安心しようとすると、今に振り回される。
今という「状況」は、結局、自分以外の物事や人との関係性である。
まず、外的要因は、どうにもならないことを直視するべきだ。自分自身のことでない限り。

過去、散々たる状況だったが、私は歩めた、踏み出せた、そのことが重要。
だから、今、色々と失っても、全部無くなっても、そこからまた踏み出せばいいだけのこと。

過去の散々たる状況よりは、生活基盤もマシであれば、知恵、知見もまだマシでしょ。
そういう意味のマシは、確かにその通り意味のあるものだ。

どうにもならない外的要素を、どうにかしようと解消することは自己満足でしかない。
自己満足でしかないので、結局はどうにもならない。
それで、またどうにかしようとする。

偶然、どうにかなることもあるだろう。結果的に。
そうなるとまた同じように、どうにかしようと執着して、振り回される。

いずれにしても、どっちにしても、負のスパイラルでしかない。

こんな息苦しいことをいつまでやっていても仕方がない。

だけど、人生の大切にしている領域が外的要素にあるのなら、また話は別だ。
なんとかしようとすること自体が目的にもなるのだろう。

ただ、私はそうではない。明らかにそうではない。
大切な領域は完全に別にある。
それを整理できるようになったのは、ここ数年のこと。

ただ、それでも、昨今、今に執着している自分にふと気付く。
いわば、それは現状に、目の前に麻痺していることの裏返しである。
どうにもならない要因、要素からは、自分自身で舵をとって脱却する。

外的要素はむしろ増えているが、あくまでも自分の中では「棚卸し」の人生後半。

今日買った黄色いスイカを食べて、自分の中が枯れないように、また浸していく。
疲れていると執着しやすいので、疲れたら、食べて、横になって、回復するぞよ。

青春は回り道。

ありがとう。

たくさんある中から選ぶオマエサン
一番大きな極甘、羅皇(らおう)を選んだ
流石に重い
冷える前に食べたが、なんと予想外に黄色だった、そして極甘だった

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