「後半の自分への置手紙 11-Dec. 2022」〜置手紙〜

なあ、オマエサン。

今、結構、慌ただしい。
確かに師走ではあるが、それはたまたまだ。
そういう時もあれば、そうでない時もある。
今が単にそういう時であるだけだ。

こうして慌しくしていると、私は麻痺しやすい。
状況への慣れならいいが、麻痺は駄目だ。
「慣れ」と「麻痺」は別物。

麻痺の中からは、執着や依存が生まれる。
慣れの中からは、大切なものが見つかる。

執着と依存においては、常に自分の思い通りにしたいという思考にとらわれ、どんどんしんどくなる。

物事は自分の思い通りになるものではないと理解し、その状況に慣れると、何を大切にしたいかが見える。

従来からの生活習慣、そして思考のクセ。
それは自分らしさでもなんでもなく、悪癖。

立派であると見せかける必要はない。
優れていると見せかける必要はない。
見せかけたり、維持することで、他者に振り回される人生で本当に良いのか?

今、視界に入るものは、まさしく表面的な事柄に過ぎない。
だが、早かれ遅かれ、それらとの関係性も、結局は時間の問題だ。

加え、それらは全くもって自分の思い通りにはならない。
自分自身ではないのだから、それは当たり前だ。
人には、それぞれの経緯や状況、価値観がある。

だからといって、人生は溜息をつくものではない。

思い通りにならずとも、寄り添いたいものがある。
思い通りにならないからこそ、割り切るべきことがある。

シンプルに捉える。

前者があることは、それが見つかることは、人生においてとても喜ばしいこと。
だから、思い通りにならない日々に「慣れる」ことはあっても、決して「麻痺しない」ようにしよう。

人は、私は、気がつけば、何もかも取り込んでしまい、抱え込もうとしてしまう。
人生の前半においては、寄り添いたいものに出会うために、そういう時期があってもいいだろう。
だが、もう私は平均寿命(日本)の半分を廻った後半に入っている。これは紛れもない事実。

よりシンプルに物事を捉え、よりシンプルに後半を歩む。

ここからは、大切なもの(寄り添いたいもの)以外は、どんどんと手放したい。
今の自分の表面的なラベルについても一切、固執はしない。さら地で構わない。

人生の前半、今に至るまで麻痺と執着まみれだった自分にとっては、そうすることは試練だろう。
依存型の執着という悪癖は、簡単に抜け切るものではない。

だが、そうやって後半を歩もうとすること自体は、相当、すがすがしいことだ。
全うしたい。

青春は回り道。

ありがとう。

家族で出かけ、クレープを食べるオマエサン

この記事を書いた人

最新のブログ記事