「人生後半の優先順位」〜置手紙〜

なあ、オマエサン。

最近は人生は後半ということをよく書く。
48歳なので、平均寿命を考えれば妥当だろう。

・家族的なもの
・個人的なもの
・仕事

私にとってはこの三つの領域がある。
前半と後半でまったく変わった。というか、変えた。

なお、もう少し前から後半に入っているつもりだ。
だが、明確に線引きをしたタイミングはないでの、下記のタイミングにした。
ごく最近として、明確に。

前半は下記の二つがぐちゃぐちゃで、一番大事な家族も振り回した。
優先順位も領域もぐちゃぐちゃだった。

・個人的なもの
・仕事

特に仕事に個人的なものも求め、混乱したし、心が破綻したこともある。
長い時間をかけて挽回するのに時間もかかったし、家族に迷惑もかけた。

そして後半の今、完全に下記の優先順位になった。

・家族的なもの
・個人的なもの
・仕事

もちろん、上から優先する順番だ。

仕事は生活するために超大事なものだ。
だけど、家族とともに過ごし、個人的に手がけてみたいことに時間を割きたい。

よく聞かれるが、経営者的な意欲もない。
前半はあったし、実際、雇われ社長の立場や自分自身としてもやってきた。
向いているかいないかではなく、優先したい順番が決まったから、それはもう無い。

仕事が優先順位の最後となっても、手を抜くというわけではない。
自分で決めた範囲できちんとやっていく。自分なりのきちんとで。

考え方だけでは実践しきれないので、生活習慣も見直す。
以前から、休日の仕事に関する通知は全部オフにしている。
アプリも夜間や休日には自動的に画面表示すらされないようにしている。
自分から確認しに行かないと、全く拾えないようにしている。
仕事で使うスマホは端末画面そのものをグレースケール画面にしている。
そして寝室にもスマホは持ち込まないことにした。
アラームもスマホから時計に変えた。
プライベートのiPad miniには仕事のツールやSNSも一切入れない。

だから、以前と違って見えるかもしれない。
変わってしまったと思われるかもしれない。
そういう意味では、確かに変わったのだろう。

でもね、変わらないと、ずっとそのままだ。
それはもう駄目だよ。もはやずるずるしていられない。

こうすることによって失われたり、こぼれ落ちていく物事や人、関係性はある。必ず。
それは仕方ない。というか、当たり前。
なにかを選べば、なにかが失われるのことがあるのは当然。
全部に対して、全てを説明することは出来ない、したとしても理解されはしない。
そもそも、理解してもらおうというのがおこがましい。

わたしは幸運にも両親から生まれ落ちてきたが、必ず終わる。必ず。
幸いにも健康で長生きするかもしれないし、一方で今日、不慮の死となるかもしれない。
だから、悔いたり、先のことを考えて不安や心配になっても、意味がない。

家族三人で出かけたり、一緒に食事をしてテレビや動画を見る。
三兎のウサギやハリネズミと戯れたり世話をする。
高校生の息子とこうしてゲーセンで一緒にポケモンのゲーム機で遊ぶ。
デュエルマスターズで遊んだり、キン肉マンを見て読んで一緒に楽しむ。
そして自分でコツコツ探ってきた創作を、もっと時間を割いて進めていく。

たいした内容でも決断でもないのかもしれない。
でも、前半にこびりついた感覚は大きくて重い。

後半の実践については、訓練したり鍛えたりする前半とは真逆だ。
余計なものを削ぎ落とす後半であり、今すぐ実践してどんどん身軽になる。

体現する。今すぐに。
オフにする。今すぐに。
本質に帰る。今すぐに。

他人があって、自分があるのか?
自分があって、他人があるのか?
いずれかが本質であるかはいうまでもなく、後者だ。
当たり前だ。

自分以外に対しては、寄り添いたい領域か、割り切りたい領域か。
その違いであって、わがままではない。

後半に踏み込んだ今、大切にしたいもの(領域)はなにか。
そんな自分軸を忘れずに。

青春は回り道。

ありがとう。

日曜日のベランダでまどろむごんたさん
キン肉マンのグミとデュエルマスターズのデッキを買った
オマエサンと連携してアルセウスに挑む

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