「切なくて、博多」〜置手紙〜

なあ、オマエサン。

博多二日目。
午前二件、午後二件のアポを終えて宿に戻る。

ごく最近、普段、ごく近しい人物に大きな出来事があった。
土曜日のことだ。それは悲しいことだ。とっても。

それが私にとっても思った以上にインパクトが大きく、引きずっている。

どうテンションを上げて今日の予定に臨むか、そんな一日だった。
同行している人に「テンション大丈夫だった?」と確認するぐらい。

最後のアポを終え、博多駅からキャナルシティ近くのカプセルホテルに戻る。
すぐ側に地域クーポンが使えるローカル系の焼き鳥屋があったので、一人入る。
食欲はない。ビール一杯と焼き鳥数本食べて店を出る。
デスクワークをしてからサウナに入り、共有スペースでこれを書いている。

今回は十日間の出張なので、プライベート用のMacBookも持ってきている。
流石に仕事用のパソコンだと、全く頭が切り替えられない。

私は彼に言った。「たかが仕事だ。そんなのどうでもいいじゃないか」と。
誤解を恐れず言えば、それは本音だ。
大切さのレベルが違う。次元が違う。私もそうだ。
私だったら、きっと駄目になる。きっと放り出す。投げ出す。
それで終わる関係や物事だったら、それでいいじゃないかと。
だって、他人だから。誤解を恐れず言えば。

先日、私は、思いがけない展開で、生まれ故郷を歩いた
それで私の人生の前半は幕を閉じた。完結。自らそうした。

だけど、その出来事は、それとは全く違うじゃないか。
自らの意識で終わらせたものと、終わらせたくないのに終わってしまったものは。

やるせない。
切ない。
残念だ。

理屈では考えられない。

人生の目的なんかない。
偶然にして生まれ、いずれ生命は終わる。
もうそれは決まっていること。
だから、必要以上に顔色を伺わなくても、忖度しなくてもいい。
私たちはいずれ終わる。何をどう足掻いても終わる。
だから、もっとシンプルでいいはずだ。

なあ、オマエサン。カアサン。
私たちは全うしようじゃないか。
だから、健康、安全、笑顔を大切にしよう。
立派である必要は一ミリもない。

どうでもよいことを、どうでもよいと思える力強さ。しなやかさ。
そして、何もかもシンプルに捉える。

全てに向き合う必要はない。

青春は回り道。

ありがとう。

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